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【感謝祭の本当の起源】ネイティブアメリカンの悲しい真実の物語とは

Aiy-yue-kwee’ Nee-kee-chue!

皆さんこんにちは、

亜希ダウニング(aki_downing)です!

カリフォルニア州のネイティブアメリカン”ユロック族”に嫁ぎ

先住民の土地でのびのび楽しく暮らしています!

11月といえばアメリカでは大きなイベントがありますよね。そう、感謝祭(サンクスギビング)です。

アメリカで感謝祭は、11月の第4木曜日に家族や友人と七面鳥料理を囲む大切な祝日です。学校や会社も休みになり、クリスマスの前にみんなで集まる機会としても親しまれています。

一般的には「先住民がピルグリム(移民者)を助け、一緒に収穫を祝ったことが始まり」とされているこの祝日ですが、実はその背景には知られざる歴史もあります。私もネイティブアメリカンの家族と暮らす中で、この日が彼らにとってどういう意味を持つのか、深く知り、考えるようになりました。

アメリカの祝日の中には、すべての人にとって喜ばしいものではないものもあります。

特にこの感謝祭は”侵略した側”と”侵略された側”の、全く異なる二つの歴史・見方があります。

侵略されたネイティブアメリカンからは『感謝祭』はどう見えているのでしょうか。

そこにはとても恐ろしく悲しい物語があります。

この記事では、アメリカの感謝祭について、先住民側の視点からの歴史を取り上げます。ただし、これはあくまでも1つの見方であり、歴史にはさまざまな説が存在します。現在も研究が進んでおり、読んでいる時点で新たな発見により内容が変わっている可能性もあります。中には、不快に感じる方もいらっしゃるかもしれません。また、私自身がこれを“正しい”と主張する意図はありません。あくまで一つの視点として、お読みいただければと思います。

この記事を書いた人
  • 在米セキュリティカウンセラー
  • オンラインコミュニティ『LinkUp』代表
  • 岩手県陸前高田市国際姉妹都市サポーター
  • 翻訳者・逐次通訳者
  • Webライター・Webデザイナー
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もくじ

現在のアメリカの感謝祭

「そもそもサンクスギビングがどんな祝日なのか分からない」という方に向けて、現在の一般的なサンクスギビングの過ごし方についてお伝えします。

アメリカの感謝祭(サンクスギビング)は、毎年11月の第4木曜日に祝われる伝統的な祝日です。この日は家族や友人が集まって食事をし、一年の恵みや支え合いに感謝する日とされています。七面鳥(ターキー)やパンプキンパイなどの料理が食卓に並び、食事や会話を楽しむのが一般的です。

では「感謝祭の起源」を知っていますか?

なぜこの祝日が行われるようになったのか説明できるでしょうか?

多くの方が、以下のような起源を教わっていると思います。

アメリカで教わる感謝祭の起源

1620年頃、ピルグリムたちは宗教の自由を求めてマサチューセッツ州に移住してきました。しかし、アメリカに到着したのは極寒の冬の最中で、多くの仲間が厳しい環境に耐えきれず命を落とすことになりました。やがて春が訪れる頃、彼らは先住民のワンパノアグ族から、作物の栽培方法や釣りの知識など、生きるために必要な技術を教わりました。そのおかげで、その年の秋には多くの作物を収穫することができたのです。

豊かな収穫を得られたことへの感謝の気持ちから、ピルグリムたちは彼らを支えてくれたワンパノアグ族を招待し、収穫の恵みに感謝する宴を催しました。

教科書などでよくみるイメージ図

感謝祭の「ピルグリムと先住民ワンパノアグ族が共に収穫を祝った」という物語は、19世紀半ばからアメリカの学校で広まるようになったと言われています。

この逸話が広く教育で取り入れられるようになったのは、1863年にリンカーン大統領が感謝祭を公式な祝日として制定したことがきっかけです。

感謝祭の制定

アメリカで感謝祭が正式な祝日として制定されたのは1863年11月、南北戦争のさなかでした。リンカーンは北部と南部、そしてアメリカと先住民族との関係を改善するためにこの祝日を正式に定めました。

いくつかの州ではすでに感謝の日を不定期に祝っていましたが、リンカーンの宣言により、国家全体で統一された正式な感謝の日が確立されました。

1863年の感謝祭の日を宣言するリンカーンの布告の写真

「多くの人はこれを感謝祭とは認めていません。」

ポタワトミ族のケリー・モステラー博士は言います。

「家族と集まって食事を楽しむけれど、メイフラワー号やピルグリムについては触れない。なぜなら、それは虚構の友情の瞬間を持ち上げ、すべての先住民が経験した虐殺や土地の奪取、残虐行為を無視しているからだ」と。

リンカーンが感謝祭を制定する1年前、ダコタ族の人々が集団処刑されるという事件が起きています。連邦政府がダコタ・スー族への食糧供給を止め、飢えに苦しんだ部族は反抗し、1862年のダコタ戦争が勃発。(”戦争”と名は付いていますが、実情は飢餓状態となった少数民族の”暴動”)

その結果、リンカーンは38人のダコタ族の男性を絞首刑に処することを命じたのです。

1862年12月26日、クリスマスの翌日に、ミネソタ州マンケイトでダコタ族たちの一斉絞首刑が行われます。前代未聞の38人同時処刑は、現在に至るまでアメリカ史の中でも最大の集団処刑記録となっています。

この処刑からわずか1年足らずで感謝祭が制定されます。

感謝祭をきっかけに先住民と政府の間のわだかまりを和らげようと考えたのです。

あなたがもしアメリカ先住民の立場なら、この感謝祭の制定に納得がいくでしょうか。

では、ここから時代をもっと遡って話をします。

多くのアメリカ人が信じている”最初の感謝祭”とはどのようなものだったのでしょか。

”最初の感謝祭”のウソ

プリマスを出発したメイフラワー号

1620年9月、イギリスのプリマスを出発したメイフラワー号には、宗教の自由を求める宗教分離者や、新大陸での繁栄と領土の確保を願う人々など、102人の乗客が乗っていました。

彼らは66日間に及ぶ危険な航海を経て、目的地であったハドソン川河口のはるか北に位置するケープコッドの近くに到着しました。その後、1ヶ月ほどかけてマサチューセッツ湾を渡り、現在のプリマスで村作りを開始しました。

しかし、まもなく厳しい冬が訪れます。乗客の大半はイギリスの都市部出身で、荒野での生活経験がほとんどありませんでした。彼らの多くは森林を恐れ、狩猟技術もなかったため、食料の確保は困難を極めました。

入植者の多くは寒さを避けるため船内で冬を過ごしましたが、閉鎖された環境では壊血病や伝染病が発生し、彼らを襲いました。結果として、メイフラワー号の乗客と乗組員のうち、最初の春を迎えることができたのは半分ほどだったとされています。

3月になって陸に上がった入植者たちは先住民ワンパノアグ族の一員であるスクワントと出会います。

栄養失調や病気に苦しんでいた入植者たちに、スクワントはトウモロコシの栽培方法、カエデの樹液の採取方法、川での魚の捕り方、毒のある植物の見分け方などを教え、彼らの生存を助けました。

1621年11月、入植者たちは初めてのトウモロコシの収穫に成功し、2代目総督ウィリアム・ブラッドフォードは3日間にわたる祝宴を開きます。祝宴中、ピルグリムの集落から祝賀の銃声や叫び声を聞き、攻撃を受けていると勘違いたワンパノアグ族の戦士たちが現れます。『相互防衛の条約』を結んでいた両者は、話し合いの結果約90人のワンパノアグ族の戦士も3日間の祝宴に参加することで合意しました。

ワンパノアグ族にとっては「断食」の期間でもありましたが、彼らは友好関係を築くために参加したとされています。

その祝宴の後、入植者たちはワンパノアグ族の土地を奪い、女性や子供を奴隷としてヨーロッパに送り始めます。帰路に着く際、彼らは奴隷を船のマストに縛りつけ、生きたまま犬の餌にするなど残酷な扱いをしました。また、これに抗議した酋長は毒殺されたと伝えられています。

次の酋長が土地と民族を奪還しようと戦いを挑んだ際に

ワンパノアグ族を壊滅状態にしたのです。

戦いに勝利した入植者は酋長の頭を槍の上に刺し、見せしめとしてワンパノアグ族の領土に飾ります。このときに惨殺されたネイティブアメリカンは、共に戦いを挑んだ他の部族も含め4000人以上と言われています。

アメリカではこのプリグリムとワンパノアグ族の『宴』が最初の感謝祭であると長年言われてきました。

しかし語り継がれているような、”仲良く一緒に”といったものではないことが分かります。

それだけではありません。

この時の宴は実際の感謝祭ではないと近年言われ始めているのです。

では、最初の感謝祭はいつ行われたのでしょうか。

アメリカの感謝祭の起源?

ワンパノアグ族との宴から16年後、1637年。

入植者たちはコネチカット州東部一帯に居住していた”ピクォート族”の土地に入ります。

ピクォート族の人口は元々は約8000人とされていますが、ヨーロッパから持ち込まれた疫病によりほとんどが入植後すぐに命を奪われてしまいます。

入植者とピクォート族はしばらくは友好関係を保っていましたが、受け入れてくれたピクォート族の優しさを利用し、彼らの領土に入植地を拡大していきます。ネイティブアメリカンには土地の所有権という概念がなかったため、土地の売買の交渉は反感を買いました。

1637年7月、ピクォート族と敵対するモヒガン族とナラガンセット族と同盟を結んだ入植者はピクォート族の集落を襲撃。奴隷として連れ去られた人もいれば、女性と女児は性奴隷にされたのち殺害。入植者によって700人以上のピクォート族が虐殺されました。その多くが女性や子供など非戦闘員です。

この大虐殺は1時間足らずで行われたといいます。

これがピクォート戦争(Pequot War)です。

マサチューセッツ湾植民地の総督であったジョン・ウィンスロップは、虐殺の翌日にこのような言葉を残します。

A day of Thanksgiving, thanking God that they had eliminated over 700 men, women, and children!
(700人以上の男性、女性、子供を排除できたことを神に感謝する日だ!)

2019年のTIME誌の記事では、「感謝祭の最初の公式な言及は1637年、入植者がピクォート族の村全体を残虐に虐殺し、その野蛮な勝利を祝った後に行われた」と述べられています。→記事はこちら

ピクォート戦争

感謝祭の宣言はこれだけではありません。

2度目の宣言は当時の総督ウィリアム・ブラッドフォードによってなされます。

For the next 100 years, every Thanksgiving Day ordained by a Governor was in honor of the bloody victory, thanking God that the battle had been won!
(次の100年間、総督が制定するすべての感謝祭の日は、この血塗られた勝利を記念し、神に戦いの勝利を感謝する日となる!)

これを皮切りに、入植者たちは先住民を虐殺した後に祝う習慣を続けます。

この習慣はリンカーン大統領が正式に11月の第4木曜日を感謝祭に制定するまで続きました。そのリンカーン自身もまた、先住民の一団を虐殺するよう命じた人物であったことはよく知られていることです。

1621年に行われた”感謝祭”とワンパノアグ族

1637年に行われた”感謝祭”とピクォート族

アメリカの”感謝祭”の歴史を語るのに、この2つの部族と入植者との関係は無視できないのです。

異なる解釈

上記の物語はあくまでも先住民側からのもの。

リンカーンの宣言以降もこの感謝祭の起源はその人の立場によって様々な解釈がされます。

『最初の感謝祭を宣言した人物』とされているジョン・ウィンスロップの日記には、「ピクォート族に対する勝利とその他の恩恵を感謝して、全ての教会で感謝の日が守られた」とあります。またピクォート族へのさらなる勝利を祝うため、10月にも別の感謝の日が宣言されていることも書かれています。

この記録が、現代の感謝祭の起源として主張される根拠の一つ。

ウィンスロップは日記の中で頻繁に”感謝の日”を宣言しています。1630年7月にはピクォート族の虐殺の前に「すべての植民地で感謝の日」が宣言されており、これはイギリスからの船が無事に到着したことを祝うものでした。また、1641年9月には「イギリス議会の成功を祝う」感謝の日も宣言されました。

ジョージ・ワシントン大学の教授であり、「This Land is Their Land: The Wampanoag Indians, Plymouth Colony, and the Troubled History of Thanksgiving」の著者であるデビッド・シルバーマンは次のように述べています。

”1637年の感謝の日と現在の感謝祭を結びつけるのは無理があります。確かに、コネチカットやマサチューセッツではピクォート族の虐殺後に感謝祭が行われていましたが、それと現代の祝日を関連づけるのは難しい。感謝祭はイギリス人の間で神からの恩恵を祝うための伝統的な行事。感謝の日は何百回、何千回も宣言され、その中には先住民への勝利を祝うものもありましたが、大部分はそれとは関係のないものです。

ネイティブアメリカンに嫁いでどうしても彼ら側に寄り添ってしまう私としては

「いや虐殺を祝ってたのは事実やないかーーい!」と言いたいところですが、どうでしょうか。

”日本人”とひとくくりにしても立場や環境によって考え方や解釈は様々だと思います。

あなたはどの立場から、どう考えますか?

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感謝祭についての教育

アメリカの学校教育では、感謝祭に関する伝統的な物語が広く教えられていますが、先住民の視点や感謝祭の歴史的背景については十分に取り上げられていないことが多いと指摘されています。多くの教育現場では、入植者と先住民が和やかに共に祝ったという物語が強調され、先住民が経験した困難や感謝祭の複雑な歴史的背景について触れられることはあまりないのです。

もちろん私が住んでいる地域のように先住民が多く住む地域や多国籍の人が集まるESLなどではきちんと両方の立場からアメリカ史を教えているところもありますが、それは先生個人の判断に任されていてカリキュラムに含まれることはほとんどないのが現実です。

アメリカの教科書で、感謝祭のこの真実の物語が載ったのは2020年が初めて。それもオクラホマ州の教科書に物語の一部だけが小さく載っているのです。

11月はネイティブアメリカンにとってとても大切な月。”Native American Heritage Month”

世間で”ブラックフライデー”と言われる11月の第4金曜日は”Native American Heritage Day”

11月はほんの少しでいいのでアメリカ先住民について考えたり調べたりしてみてください。

ネイティブアメリカンは感謝祭を祝うのか?

まず呼び方ですが、Thanksgivingではなく”ThanksTAKING”という言葉を使う先住民も多いです。

また”Happy National Genocide Day”と皮肉を込めて言う人もいますが、アメリカ先住民でない方は使わない方がいい表現だと私は思います。いくら心を許し合える中であったとしても。

私は普段こういう祝日の場合は”Happy Holidays”と挨拶することが多いです。

次に先住民もこの日を祝うのか?

もちろん今では多くのネイティブアメリカンも感謝祭を楽しみます!純粋に”家族と美味しい料理を楽しむ日”として祝います。しかし、それも人それぞれ立場によって違います。

ワンパノアグ族と同じように断食週間として過ごす人。美味しいディナーを前に、先祖に祈りを捧げる人。そもそも感謝祭を祝うことをしない人。部族によって、個人によって、それぞれ自分の過ごしたいようにしています。

私の家族も年に数回ある家族行事として感謝祭を楽しみますが、旦那自身は”ヨーロッパ人が作ったイベント”に積極的ではありません。おそらく理由は祖父母に育てられたから。祖父母の時代はまだまだネイティブアメリカンの迫害があった時代。家族や友達が突然この世からいなくなることも当たり前にありました。そんな時代を生きた祖父母と長い時間を過ごした旦那は、こういったイベントには複雑な思いがあるようです。

息子にアメリカのひとつの行事として楽しんで貰いたいと思う反面、歴史の背景を知るものとして、きっと私なんかには想像もできない程の葛藤があると思うので、私も特にこれについて言及することはありません。

それが我が家の感謝祭の過ごし方です。

まとめ

ネイティブアメリカンは入植者を”客人”としてもてなし、入植者はネイティブアメリカンを”野蛮人”として虐殺する。アメリカの歴史や祝日を語る時には、常に相反する2つの見方が存在します。

そして祝日の起源、真実の歴史を深く学んでみると、そこには暗く、悲しく、それでも勇敢なネイティブアメリカンの姿があるはずです。

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