アメリカの感謝祭といえば、家族や友人が集まり料理を囲んで楽しいひとときを過ごす祝日です。
今では多くのアメリカ人、そして在米の日本人も祝うようになりました。
しかし、その祝日の歴史を知ると、必ずしも感謝すべき出来事ばかりではないことが見えてきます。
感謝祭の歴史は、ヨーロッパから来た入植者と先住民との出会いだけでなく、その後の疫病や土地の奪取、虐殺などの悲劇をも含んでいます。この祝日が、先住民の悲しみを切り取って美化された「物語」であることも知ってほしいのです。
感謝祭を祝う現代の伝統と、その起源となった歴史。
それらを、少し分けて考えてみましょう。
感謝祭と疫病
感謝祭の起源は、1621年のピルグリムとワンパノアグ族が共にした宴にさかのぼると言われていますが、メイフラワー号が来るより前の出来事がその後の感謝祭に大きな影響を与えているとされているのです。
アメリカ先住民は家畜や過密状態、衛生の悪さが原因の病気を経験したことがありませんでした。
なぜなら1492年以前、アメリカ大陸はほぼ孤立していたからです。
しかし、孤立していたことからヨーロッパやアジア、アフリカから来た病原体に対する免疫を持っておらず、ヨーロッパ人が先住民の村を通り過ぎるたびに病気が持ち込まれ、急速に命を落とすこととなります。
この結果、入植者たちは残された集落を簡単に支配することが可能となったのです。
ピルグリムたちがマサチューセッツに到着する約4年前、イギリスやフランスの漁師たちはすでにニューイングランドを訪れていました。新鮮な水や薪を求め、先住民の村に侵入しては奴隷貿易のために先住民を連れ去っていました。この一連の侵略は教科書にはほとんど載っていませんが、実はアメリカ史の中でも非常に重要な出来事。
ヨーロッパ人が驚くほど速く入植できた理由が『疫病の流行』にあるからです。
漁師たちがやってきてわずか3年の間に、ニューイングランド沿岸の先住民族の90〜96%が疫病で命を落としています。先住民社会は短期間で壊滅的な打撃を受けたのです。
あるイギリス人の残した日記には「生き残ったのは20人に1人もいない。これまでの人類史で見たことのないほどの死亡率だ」とあるほど。
生き残った先住民は他の部族と合流するために移動。その結果、病気も一緒に運んでしまったのです。ヨーロッパ人に会ったことがない先住民も多くいましたが、そういった人も命を落としていきます。
そして1620年、ピルグリムたちが到着した時点でも、先住民の間で疫病はまだ流行していました。
ピルグリムたちは自分たちが”神の計画”の一部であると信じていました。彼らは、先住民が疫病で大勢亡くなったことを”神の意思である”と信じ、その土地を自分たちが支配するために与えられたと考えたのです。
入植を進めて空っぽの村を発見するたびに「神はこの土地を我らに与えた。神の意思によってこの土地を支配する」と強く意識するようになり、彼らは西へ進んでいくことになります。
このあたりから宗教を”正当化の手段”としてより一層使うようになります。
ニューイングランド地方の先住民の人口がある程度増えた頃、ヨーロッパ人を追い出すにはもう手遅れな状態にまで入植は進んでいたのです。
ワシントンD.C.のアメリカ・インディアン博物館での展示にはこう記されています。
最初の先住民の大量死は誰も意図していなかった、避けられなかった。それはある意味必然であったため、人類史上最大の悲劇の一つです。しかし、その後に起こった先住民の大虐殺を”悲劇”としてはならないのです。
もしアメリカ大陸が独立していなかったら。
アメリカ先住民が疫病の免疫を持っていたら。
ヨーロッパ人に会ったことのない先住民に疫病の感染が広がらなかったら。
集落が入植前に壊滅していなかったら。
空っぽの集落に耕していて豊作の農作物がなかったら。
植民はもっと遅れていたし、入植することすらできなかったかもしれないのです。
そしてこの疫病の襲来で最も大きな被害を受けたと言われているのが、ワンパノアグ族。
感謝祭の起源とも言われている物語の主人公です。
ワンパノアグ族と感謝祭
ワンパノアグ族(Wampanoag)は、アメリカ北東部のマサチューセッツ州とロードアイランド州を中心に、数千年以上にわたり生活してきた先住民部族です。
- 『ワンパノアグ』とは”日の出の地の人々”または”東の人々”という意味
- 言語はワンパノアグ語
- 人口は3,841人(2023年現在)
- 現在50以上の支族が存在している
- 連邦認定されているのはマシュピー・ワンパノアグ族(Mashpee Wampanoag Tribe)とアクィナ・ワンパノアグ族(Wampanoag Tribe of Gay Head – Aquinnah)の2つのみ。
- 世界最大級のカジノの一つであるフォックスウッズ・リゾート・カジノの設立を通じて経済的成功を収めている。
- ”ウィグワム”と呼ばれるドーム型の家に住む
ワンパノアグは、その当時69の集落で構成された部族でした。
彼らは春から夏にかけては狩猟者、採集者、農民、漁師として活動し、寒い季節になるとより安全な内陸部に移動して過ごします。世界中の先住民と同様、ワンパノアグも自然と互いに助け合う関係を築いていました。
「豊かな自然に感謝し続ける限り、自然も恩恵を返してくれる」と信じていました。
そのためピルグリムたちがアメリカに到着するずっと前から、ワンパノアグは収穫に感謝するための宴や儀式を通じて、感謝祭のようなお祝いを頻繁に行っていたのです。
ここから1つめの”感謝祭”に繋がります。
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入植者たちがやってきます。
入植者とワンパノアグ族との関係を語るのに忘れてはいけないのが、両者の間に通訳として入った重要な人物、スクアント(Squanto)です。
タクセット族(ワンパノアグ連邦の一部族)のスクアントは、イギリス人探検家に捕まって5年間奴隷として生活していました。奴隷生活から生還し、マサチューセッツ州に戻ったスクアントはワンパノアグ族と共に生活を始めます。
入植者たちが食料不足に苦しみ、飢餓や病気で多くの命が失われていた時、英語が話せるスクアントと出会います。
彼はトウモロコシの育て方や栽培技術を教え、川や海での漁の仕方、狩猟技術、貝やカエデの樹液の採取方法も伝えました。ワンパノアグ族の酋長マサソイトと入植者たちの間を取り持ち、相互に守り合うための条約も交渉したとされています。
実はこのとき、ワンパノアグ族はある別の理由で入植者を受け入れられなかったとされています。
それは彼らの『臭い』です。
北ヨーロッパやイギリス人は、『健康に悪い』と信じてほとんど入浴せず、服を一度に全部脱ぐことも『不道徳』とされていました。入浴をすることを避け、身体の清潔よりも衣服の交換や香料の使用で体臭を抑えることが当時のヨーロッパでは一般的だったのです。
スクアントは彼らに入浴するよう教えたり、身体を清潔に保つことを交渉の条件に入れようとしましたが、どれもうまくいきません。
このような衛生習慣も疫病が蔓延した原因のひとつであると言われています。
疫病にさらされたことでワンパノアグの村の多くは消滅し、部族のわずかな人々しか生き残ることができませんでした。
そこからさらに数十年。
1675年から1676年にかけて入植者との間で激しい武力衝突がありました。
その名も『フィリップ王戦争』
この戦争はアメリカ史の中で最も血なまぐさい戦争の一つとされています。
フィリップ王戦争は、ワンパノアグ族の土地を奪い文化や信仰を脅かす入植者への不満から勃発しました。ワンパノアグ族の当時のリーダーメタコム(フィリップ王)が中心となり入植者の住んでいた村を襲撃。先住民は一時的に優勢に立ったものの、入植者側の反撃がありました。
メタコムは現在のロードアイランド州での戦闘中に殺害されます。彼の死により、ワンパノアグ族を中心とした先住民連合は崩壊。多くの先住民が奴隷とされるか土地を追われます。
現在ワンパノアグの人々は感謝祭を『追悼の日』として悼んでいます。彼らは数百人の先住民と共に、プリマス・ロックを見下ろすコールズ・ヒルに集まり、毎年先祖に祈りを捧げるのです。
この感謝祭の陰には、ワンパノアグの戦士たちが家族と土地を守るために戦った歴史があります。彼らの犠牲と勇気を思い出すことで、私たちは過去に学び、未来に向けた感謝の意味を深く考えられるのではないでしょうか。
ピクォート族と感謝祭
ピクォート族(Pequot)は、アメリカ合衆国コネチカット州東部を中心に、17世紀初頭から生活していたアルゴンキン語族の先住民部族です。
- 『ピクォート』とは”破壊者”または”戦士”という意味
- 言語はピクォート語
- 人口は1,334人(2000年現在)
- 支族はコネチカット州で州認定された4つと、ウィスコンシン州の1つ
- 連邦認定されているのはマシャンタケット・ピクォート族(Mashantucket Pequot)のみ。
- ”ワンパム”と呼ばれる貝殻を使った通貨があった
入植者と出会う前、ピクォート族はこの地域の支配的な部族で、人口は約16,000人ほどいたとされています。これはこの地域で最大級の部族。
トウモロコシ、豆、カボチャだけでなく、沿岸部に住んでいたため魚や貝類、ウナギやロブスター、カキなどを食べて生活していました。
ピクォート族は自然との調和を大切にし、ワンパノアグ族と同じように、季節の変わり目や狩猟や収穫の際には精霊や神々に感謝を捧げる儀式があります。これらの儀式は部族の結束を強め、精神的な安定をもたらす重要な役割もありました。
最初にピクォート族と交易関係を築いたのはオランダ人。その後多くのヨーロッパ人探検家、商人、入植者と出会います。しかし、交易や領土をめぐる争いが原因で、ヨーロッパ人との関係は次第に悪化していきます。
ここから2つめの感謝祭に繋がります。
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1636年、イギリス商人ジョン・オールドハムが殺害されました。彼の遺体を見て、イギリス入植者たちはその責任をピクォート族に押し付けます。
入植者はピクォート族の子供たちを人質として捕らえ、さらなるワンパム(貝殻を使った通貨)、イギリス人に対し良い行いをすること、商人殺害の責任者の引き渡しを要求。しかし、ピクォート族がこれらの要求を拒否します。これをきっかけに入植者は攻撃を開始。コネチカット川沿いのピクォート族の村を焼き払い、多くの人々を殺害しました。
マサチューセッツ湾植民地の総督であったジョン・ウィンスロップは、虐殺の翌日にこのような言葉を残します。
A day of Thanksgiving, thanking God that they had eliminated over 700 men, women, and children!
(700人以上の男性、女性、子供を排除できたことを神に感謝する日だ!)
疫病によって人口が16,000人から1,500人に減らされていた最中でした。
ピクォート族の虐殺に対する「勝利の宣言」と宴です。
そんな中入植者はさらにピクォート族の敵対部族であった近隣のモヒガン族やナラガンセット族と手を組みます。「敵の敵は味方」という論理の下で結ばれたこの同盟によって、ピクォート族は圧倒的に劣勢となります。
1637年5月26日の深夜。ジョン・メイソン大尉が率いるイギリス軍とその同盟部族は、ミスティック川沿いのピクォート族の村を包囲します。その村は防御が固く、多くの家族が安心して暮らしており、「グリーンコーン・ダンス」という年中行事を祝っていました。
イギリス軍が火を放つと村全体が炎に包まれ、火の中から逃げ出そうとする人々は次々と槍や銃弾で命を落とします。犠牲者の推定数は500人から700人とされていますが、多くの学者は「さらに多かった可能性がある」と指摘しています。この虐殺の際、ピクォートの戦士たちは村を離れていたため、殺害されたピクォート族のほとんどは女性と子供でした。
ピクォート族の壊滅を象徴するこの事件は『ミスティック虐殺(Mystic Massacre)』と呼ばれ、感謝祭の宣言があった『ピクォート戦争(Pequot War)』の中でも重要な出来事として語り継がれています。
ピクォート族の生き残りはこの時点でおよそ200人。生存者は奴隷として売られるか、他の部族に吸収されました。
降伏することを余儀なくされたピクォート族。
1638年9月のハートフォード条約によってその土地は勝者の間で分割されることになります。
これについての植民地側の記録は、先住民を「信用できない血に飢えた野蛮人(Untrustworthy, bloodthirsty savages)」と見なす風潮を助長しました。先住民はキリスト教への改宗を通じて矯正され、イギリス人や後の入植者との接触を断たれるべきだという考えが広がりました。
プリマスの元総督、ウィリアム・ブラッドフォードはこの虐殺をこう記しています。
It was a fearful sight to see them thus frying in the fire, and the streams of blood quenching the same; and horrible was the stink and scent thereof; but the victory seemed a sweet sacrifice, and they gave the praise thereof to God, who had wrought so wonderfully for them, thus to enclose their enemies in their hands, and give them so speedy a victory over so proud and insulting an enemy.
(火の中で人々が焼けていく姿は恐ろしいものだった。身体から流れ出る血が炎を消し止める様子はぞっとするもので、特に臭気と悪臭が酷かった。しかし、この勝利は甘い犠牲のように思う。敵を自分たちの手中に収め、こんなにも速やかに傲慢で侮辱的な敵を打ち負かすことを可能にしてくれた神に私は感謝を捧げた。)
これが、私たちが知る感謝祭の土台となった出来事です。
多くのアメリカ人は「この事件は悲惨で許しがたいが、今の感謝祭はこの時代と同じように虐殺を祝っているわけではない」と言うかもしれません。確かに、現代の感謝祭はこの非人道的な出来事とは遠いもので、家族の安全や健康に感謝することが主流。私たち家族も同じです。
ですが、私はこの感謝祭について複雑な思いを抱えて過ごしています。
それは単に私が先住民に嫁いだからでしょうか。先住民側からの歴史を学んだからでしょうか。
特に今、パレスチナの土地で行われている虐殺は、このワンパノアグ族やピクォート族に対して行われたものと違いがあるのでしょうか。
他国の戦争に武器を提供しながら「家族の健康や安全へ感謝」できますか?
私はアメリカ国籍ではない日本人ですが、アメリカという国に住んでいるのであれば同罪だとも思うのです。
戦争が行われている。それもアメリカの援助でたくさんの人が虐殺されている。
その事実を知っている私は、イギリス人入植者と同じではないか。
そう思わずにはいられません。
感謝祭にまつわる書籍
これらの出来事について詳しく知りたい方は、以下の書籍を参考にしてください。
- Loewen, James W. (Author)
- English (Publication Language)
- 480 Pages – 07/17/2018 (Publication Date) – The New Press (Publisher)
- Used Book in Good Condition
- McKenzie, Robert Tracy (Author)
- English (Publication Language)
- Silverman, David J. (Author)
- English (Publication Language)
- 528 Pages – 10/13/2020 (Publication Date) – Bloomsbury Publishing (Publisher)
- Hardcover Book
- Philbrick, Nathaniel (Author)
- English (Publication Language)
これらの書籍は、1621年に行われた”感謝祭”に至るまでの歴史的背景について詳しく記載しており、先住民とヨーロッパ人入植者の双方の経験や文化についての洞察をしています。
まとめ
アメリカの感謝祭は、家族や友人と感謝の気持ちを分かち合う大切な祝日です。しかし、その背景にはワンパノアグ族やピクォート族が経験した悲しい歴史があります。
今日の感謝祭は、過去の出来事を知り、共に歩む未来を考えるチャンスでもあります。在米日本人の皆さんには、この祝日を迎えるにあたって、感謝祭の明るい一面だけでなく、その裏にある歴史についても知っていただきたいと思います。
特にお子さんがいる方は、家族で感謝祭について話し合う時間を持ってみてほしいです。
感謝の意味や、私たちが今受けられている生活の背景にある多くの人々の犠牲を伝えることで、より深い理解を得られることと思います。
この祝日が、家族の絆を深めるだけでなく、歴史を学び未来を考える時間にもなることを願って。